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せんばについて
SEMBA 船場(せんば)の歴史
豊臣秀吉による大坂城築城・大坂城下の開発時、西に位置する本事業地「船場」は、町人(商人)の移転先として開発されました。以降、「秀吉が築き、徳川が育んだ商都」と呼ばれ、物流の拠点を担う商人文化根付く市街地で、近世の時代から大阪を代表する中心地として発展しています。
南北約2km、東西約1kmの碁盤の目の町割りで整備され、御堂筋や堺筋が南北に通じ、東端は東横堀川・西端は旧横堀(阪神高速)・南端は長堀通・北端は土佐堀川に囲まれた四角形の地です。
船場は、物流の拠点となり、全国から人と富と情報を集積された経済都市として、金融・薬・繊維・輸入雑貨など多くの問屋が繁栄します。
町人文化の文芸・芸能はじめ、商人が育んだ商い文化発祥地で、上方文化発祥の地です。大正期には「大大阪」と呼ばれ、モダンで最新の都市文化スタイルを創造しています。
繁華街のキタやミナミと異なり「住んでよし、働いてよし、訪れてよし」の船場は、大阪の中心地として、都心の魅力と価値あふれるところです。
SHOPPING STREET 商店街の歴史
- 心斎橋筋の
成立 -
心斎橋筋の発展は新町との関わりが深い。
寛永年間、道頓堀や阿波座あたりに散在していた遊女屋を集めて成立した新町の廓は、大坂唯一の遊廓である。当初は西側のみに出入口が設けられたが、明暦三年(1657年)に東の大門を開き、船場との往来が盛んになる。心斎橋筋は、この廓と、もうひとつの悪所、すなわち島之内を隔てて南に位置する道頓堀の芝居町とを結ぶ回遊路として発展したと考えられている。
心斎橋筋が商店街の姿を整えはじめた時期はあきらかではない。ただ延宝七年(1679年)の地誌『難波鶴』には、小問物屋・古書店・古道具屋などが営業していたことが記されている。
やがて大坂最大、おそらくは国内最大級の小売商店街に成長する。 - 書籍商と
小間物屋 -
資料を見ると、書籍商・古道具屋・琴三味線屋・塗物屋・餝屋などが軒をならべていたことがわかる。食品業では昆布商が目についた。なかには呉服商下村松屋(現大丸)、書籍商河内屋佐助(現三木楽器店)など、今日にまで継承されている老舗もある。和装小物など婦人を顧客とした店が集まっていた点とともに、河内屋系・伊丹屋系・敦賀屋系・近江屋系など、多くの書籍商が集まっていたのが、この町筋の特徴である。
店名を記した白張看板を掲げ、店先には拓本、法帖や漢籍をならべていた。なかには義太夫本で知られた加島屋など持徴をもつ書店も少なくなかった。
当時、書籍商は版元を兼ねていた。この界隈は出版社が集中する、日本有数の情報拠点であったと見てよいだろう。
天保年間には下村松屋の南側にあった金屋喜五郎の店など、「江戸小物」をあつかう店が登場し繁昌をみた。煙草入れ・煙管・紙入れ・鏡袋・櫛・かんざし・手拭・歯磨・楊枝・団扇・錦絵など「メイドイン江戸」の商品がならべられた。ただ東都との交流が増えた幕末には、おのずと衰えたという。 - 町筋の風俗
-
心斎橋筋の賑わいは、街の案内記、「名所図会」の類に描かれている。
格子戸と二階の虫籠窓(むしこまど)を特徴とする典型的な町家が、街並みをかたちづくる。なかでも大店は間口を広く構え、軒先に暖簾を吊る。
通りに目を移すと、店先で米をつくところ、辻に立つ飴売りの店なども描かれている。大坂独特の荷車「べか車」や馬で荷を運ぶ人、侍、駕籠かき、荷を背負う商人、奉公人、編笠をかぶる人、遊女のような姿、旗を立てて歩いている人や、太鼓を打ち鳴らす姿もある。さまざまな人が、町筋を往来していたことがわかる。
さらに街の風俗も記録されている。暑い季節、橋上には茶店がならんだ。橋のたもとには床屋が、階段を降りた浜地には牡蛎船の営業があった。呉服店などが実施する歳末の大売り出し「誓文払い」は、そもそも京に由来するが、大坂ではこの町筋が一番にぎやかてあった。
三津八幡の祭礼に際しては、おおがかりな造り物が飾られた。
幕末の頃には、心斎橋筋は夜店のにぎやかさでも知られるようになる。大坂を訪れた外国人の記録を見ると、遅くまで開業している書店や呉服店をひやかして楽しんだことがわかる。もちろん青い目の異邦人に限らない。日本中から商都に来訪した観光客、仕事で訪れた町人や武士も夜の町筋をぶらつくのが、大坂観光の定番となった。
たとえば安政二年(1855年)、母親と大坂を訪れた儒学者清河八郎も、大坂滞在中に心斎橋の「大丸」をしばしば訪れ、買物を楽しんでいる。彼の日記を見ると、大店なども夜間に営業するようになったのは、近年の不景気に原因があると記されている。
HIGHLIGHT 周辺の見どころ
- 坐摩神社(いかすりじんじゃ)
- 平安時代の「延喜式」にも記される摂津国一之宮。住居守護の神、旅行安全の神、安産守護の神等として広く信仰。江戸時代寄席の建物が作られ、落語が行われたことから「上方落語寄席発祥の地」とされる。末社陶器神社の「大阪せともの祭(大阪市指定無形民俗文化財)」は、300有余年の歴史と伝統を誇る。
- 難波神社
- 反正天皇が大阪府松原市に柴籬宮を開かれたとき、父帝の仁徳天皇をご祭神として創建されたと伝えられる古社。江戸時代の稲荷信仰から境内の末社稲荷神社は、「博労町のおいなりさん」で有名。植村文楽軒が1811年(文化8年)に人形浄瑠璃の小屋を開き、明治の初め「彦六座(人形浄瑠璃の劇場名)」が開かれた。
- 本願寺津村別院 北御堂
- 江戸時代より多くの大阪商人たちの心の拠り所であり、1878(明治11)年、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)の第1回総会が開催され、五代友厚が初代会頭として選出された商業のゆかりの地である。彼らの合言葉は、「御堂さんの鐘の音が聞こえるところで商売を」。その思いを胸に、商いに精を出し、やがて「船場」が築かれたのだとか。2019年北御堂ミュージアム開設。
- 真宗大谷派難波別院 南御堂
- 難波別院(南御堂)の創建は、1595年(文禄4)に、本願寺第12代・教如上人が大坂渡辺の地に「大谷本願寺」を建立したことに始る。1596年(文禄5)に鋳造された「大谷本願寺」銘の梵鐘(大阪市指定有形文化財)が現存する。松尾芭蕉終焉の地。
- 綿業会館
- 故岡常夫東洋紡専務の遺言(日本綿業の進歩と発展)で寄付された100万円と業界からの50万円の寄付による建物。昭和6年竣工。同時期行われた大阪城再建費用は48万円。贅を尽くした建築物には、戦前・戦後にわたり、リットン調査団、ルーズベルト大統領夫人、ヘレンケラーなど、歴史上に名が残る人達が来館する。各室内は、世界各国の様式で優雅かつ荘重な各室の意匠とともに国の重要文化財としての風格を放つ。
- 旧緒方洪庵住宅
- 天然痘のワクチン「痘苗」を開発し、天然痘から人々を救った緒方洪庵(医師、蘭学者)が、1838年当地で開業し、塾を開いて多くの人材を養成した江戸時代末期の大阪の町屋建築の代表的なもの。医学を教える塾として始まり、オランダを通じて伝えられる最新の知識を学ぶ「蘭学塾」に発展し、福澤諭吉・橋本左内・大村益次郎等多くの英才ある塾生を輩出。